「嘘をついてはいけません」とは誰もが散々聞かされてきたことであるし、現代ではさらに、他者に嘘をつくのがいけないだけではなく、自分に嘘をつくのがよくないとされる。けど、こうした指令を真に受けて生きていくのは、めちゃくちゃしんどい。人は誰だってやりたくないことをしなければいけないのだし、その際にいちいち「自分に嘘をついている」などと罪悪感を感じなければならないのはとてもつらい。というわけで、他者にであれ自分にであれ、一切の嘘をつかないということは通常は不可能であるし、だから私たちは嘘というものとどのようにつきあっていくかを考えないといけないわけである。
例えば、この本の著者が滞在していた南仏(をはじめヨーロッパ)では、人々はおしゃべりに酔い、紅潮した気分から決して実現されない、というかはじめから実現する気のない約束を取り交わしたりと、平気で嘘をつく。彼らはそうしたことをひとつの芝居としてみんなで楽しみあっており、日々の生活のうちでも、その虚構の舞台を少しでも気持ちのよいものにするための下準備(ネタ仕込み、雰囲気を醸し出すための大道具小道具の収集・配置)には如才がない。というか日本でも、富国強兵・軍国主義の近代より以前においては、「やまと魂」というのは実直とか正直とか最期は潔く散るべしとかいうことではなく、実務的な抜け目のなさ、臨機応変な受け応えができるということを指しており、狡知や策略はむしろ高く評価されるものであったらしい。
生きて人と交流する、おしゃべりをするとは、嘘とつきあうことでもある。オスカー・ワイルドや柳田國男は、嘘を悪しきものとして排除し、嘘を見ないようにする心性を「嘘の衰退」として嘆いていたらしいが、「嘘をついてはいけない」とか「真実に生きる」というふうにして自分自身から嘘を遠ざけてしまうというのは、嘘に惑わされる危険に身を晒すことであり、なによりも嘘の強烈な魅力を感得できない点でとてももったいないことでもある。という感じのことが軽やかな文体でエッセイ風に語られる本。