読んだもの観たもの

I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』

サリンジャーナインストーリーズくらいしか読んだことがなかったのだけれど、こないだ浅井健一の詩集を読んだこともあって、サリンジャー熱がにわかに高まりつつあったので、この機会に『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)を読むことにした。

ちなみに『ライ麦畑』にはこの野崎訳と村上春樹訳があるが、村上訳は読みやすいが表現がちょっとマイルドになっており、この野崎訳はさすがに古い訳なので少し読みづらいところはあるが表現は尖っているということらしく、そこは野崎訳だろう、ということで。(村上訳も買って少し読んだが、確かに読みやすいが、主人公の口癖が「やれやれ」と訳されているのは…)

ともかく、読んでみて感触としてはすごくよかったのだけれど、ただ一体何がそんなによかったのかと言われると、よくわからない。ネットで他の人がどんな感想とか解説を述べているかもざっと読んでみたのだが、それでもいまいちピンと来ない。とりあえず、この作品が世間でよく言われるような、大人の社会に対する少年の側からの反抗であるとか、大人と子供の狭間で揺れるジュブナイルものであるとか、そういうものではないだろう(この作品が表面上そういうものであるとしても、少なくとも自分はそういうところに感動したわけではない)というのはわかるのだけど、じゃあ何なのか、というのがわからない。

そこで、この本。

この著者がどこの誰で、どんな学校を出て、他にどんな本を書いているとか、そういうデーヴィッド・カパーフィールド式のくそみたいな話をすることをこの著者は好まないだろうけれど、少しだけ触れておくと、そもそもここ最近サリンジャーが気になっていたのは、この著者の最近出たこの本を読んだからなのであった。

これはものすごい本で、いつかまた感想も書こうと思っていたのだけど(そう簡単に感想が書けないくらいすごい)、この著者が『ライ麦畑』についても書いている、それも「もう何も言いたくない」というくらいに言い尽くしている、ということなのだから、読まずには済ませられない。

で、この著者の『ライ麦畑』の読解の方針は、パッと読んだ感じの印象に囚われずに、一見無意味にも見えるような細部に徹底的にこだわること、そうすることで、サリンジャーがこの作品に仕掛けた様々な「企み」を一つずつ紐解き、『ライ麦畑』という小説を浮かび上がらせ直すというようなもので、17歳の主人公ホールデンがその場面場面で何を感じたかみたいな「心情」に立ち入った素人心理学を開陳する代わりに、32歳のサリンジャーが『ライ麦畑』という小説をどのように書いたのか、その「描写」――なぜある描写の前や後にこのような描写が挿入されているのか、似たような描写が繰り返し反復されるのはなぜか、とか――を極めて精緻に読んでいく。そうして著者が浮かび上がらせる『ライ麦畑』像は、驚愕すべきものである。サリンジャーという作家が心底恐ろしくなった。

ところで、ブランキー・ジェット・シティにその名も「サリンジャー」という曲があるが、この本を読んだ後でその歌詞を聞いてみると、浅井健一サリンジャーを極めて適切に理解しているのに驚く。この本、読んだのか?