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『「家庭料理」という戦場:暮らしはデザインできるか?』

「家庭料理」という戦場: 暮らしはデザインできるか?
 

いい感じだった。『ブルーノ・ラトゥールの取説』の著者の人が、「家庭料理」を切り口に、暮らしや生活のデザイン(最近流行りのライフハックとかそういうの)について考えてみるという内容。たしかにライフハックとかああいうのは便利で、その時は「おおっ」と思って暮らしぶりがいくらかよくなったような気にはなるものの、落ち着いて考えてみると、相変わらず生活というのは退屈で鈍いもので、結局とくに何が変わったというようなものでもない。でも、ライフハックでもしなければ、生活なんてやっていけないでしょう、というのもある。こうした感覚を少なからず共有しながら実践される現代の暮らしのデザインにおいては、暮らしをめぐる確固たる事実かのように見えるもの(「私たちはこのような暮らしをしてきた/すべきだ」)を提示しても、あるいは、それらの脱構築(「必ずしも暮らしはそうでなくてもよい/もっと別の暮らしがありえるはずだ」)を試みてみても、どちらも決定打とはならない。それらは暮らしのデザインの下位要素として「一時的に」取り込まれ、活用されるだけなのである。というわけで、こうした私たちのノンモダンな暮らしを対象とする学問的営為とは、確固たる事実の提示でもなく、また、それらの脱構築でもなく、暮らし(家庭料理)をめぐる諸関係の複雑な(「戦場」にも喩えうる)ネットワークを描きだしてみること、そしてそうした記述(や新たな関係の付け加え)をもってそれらのネットワークに連なってみることである。だから、この本を読んだ人が「なるほど」と思ったり違和感を感じたりして、暮らしというものについて何か言いたくなったとしたら、学問的営為として目的は果たされたことになるし、そうして人々がネットワークに参加していくこと、そうして人々のあり方が変容していくことが、「知る」ということであるらしい。