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『人間と経営 私たちはどこへ向かうのか』

経営学史学会叢書、新シリーズのうちの一冊。経営学が「人間」なるものをどのように捉えてきたのかという観点から、テイラー、人間関係論、バーナード、ドラッカー、行動科学、人的資源管理論、ドイツ経営学が論じられる。このテーマについてはそれなりに土地勘もあるのでざーっと読んでみて、特に興味を引いたのは、テイラーとドイツ経営学

テイラーについては、その人間観が「経済人」ではない(少なくともそれのみに収まりきるものではない)ということが論じられている。この章でも強調されているように、テイラー読解において大事なことは、経済的動機云々ではなく、業務遂行における客観的で中立的な基準を設けようとしたということであり、テイラーがどのような人間観を持っていたかということでいうと、彼が理想としていたのはむしろ、科学(事実)によって経験や思い込みを乗り越える啓蒙主義的な人間であった――そして、それとの乖離で実在する人々を把握していた――という風に言った方がよいのではないかとも思う(テイラー=経済人というのも、誰が言い出しのか、いまいちわからない。シャインの『組織心理学』第3版で確認してみると、経済人について論述する箇所にテイラーの名は挙がっていない)。

ドイツ経営学は不勉強で、全然知らなかったのだが、ニックリッシュ(名前はもちろんよく聞く)が経営を家計と企業に分けて捉え、前者を本源的経営、後者を派生的経営としているところとか、興味深い。あくまで家計が本源であり、「生活」する人間を主軸に経営を論じるというのは、ワークライフバランスが盛んに論じられている昨今でも、あまり例を見ないかもしれないなあと思うなど(たしか久保明教さんの『「家庭料理」という戦場』でも、学問が生活を無視してきたことが触れられていた)。

ただまあ、自分的には「人間」というものに対する関心の持ち方がだいぶこの本とは違うなあと感じた。経営とか組織が「人間」を語る時、往々にして「人間」には救世主的な役割が与えられることになる。市場原理の横行とか共同体の希薄化とか、あとそれこそシンギュラリティ的なテクノロジーの際限ない進歩によって人間が危うくなるみたいな状況を脱するには、今一度「人間」が必要だ、ということがよく言われ、「人間」にそうした窮地を乗り越えるような性能が読み込まれたりもするのだが、私としては、そうした議論にはもう飽き飽きしている。もちろん、私たちが「人間」にそうした期待をすること自体を否定するつもりはないが、こうした「人間語り」を素朴に信用せずに――つまりそれを議論を終わらせる「結論」とせずに――、例えばそれらが経営や組織の中で、どのような意味を持ち、どのような事態を現に産出しているのかを考えてみてもよいはずである。そのように見ると、救世主であるはずの「人間」が多分に、問題の維持にも貢献しているという点も見えてくるだろう。ああ、そういう点では、この本にCMSの観点からの論考が入っていないというのが、少し残念ではあった。でも、きっとこういう感想を持つ人は少ないはずで、普通によい本です。