読んだもの観たもの

I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

マイブラ@Zepp Namba(2026. 2. 4)に行ってきた

前に観たのがたしか2013年の2月5日(@なんばHatch)ということで,丸々13年ぶりに観てきたマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン

2013年に観た時があまりにも素晴らしすぎて,もうあれを超える感動はないだろうと今回はあまり期待せずに観に行ったところ,思いのほか悪くなかった。

前回はケヴィン・シールズの真ん前に陣取ったこともあり,ほとんどギターしか聴こえなかった(そしてそれが最高だった)のだが,まあその点で前回は,ケヴィン・シールズという一人のミュージシャン/ギタリストの天才を十二分に体感するような経験だった(To Here Knows Whenのギターの音の美しさは感涙ものだったし,Soonのギターリフも素晴らしい音だった)。一方,今回はわりと全体の出音のバランスがよく,ボーカルもふつうに聴こえたし,バスドラなんか2階の最後列で聴いていても内蔵を揺らすほどの音圧で,まあバンドとしてマイブラを観たという感じだった。

それでバンドとしてライブを観ると,マイブラというバンドには不安定なところが多々あるのだが,それはまあ彼らの持ち味のようなもので,グダったかと思えば突然よくなったりと情勢が目まぐるしく変わるのも一興というところ。そもそもマイブラの魅力といえば,リバーブの効いた歪みギターに男女ユニゾンの甘美なコーラスといういわゆるドリーム・ポップ的なエモさももちろんあるわけだけど,私にとっては,奇妙なコード進行に不気味さすら感じさせる歌メロ,変拍子と言うにはあまりにいびつな拍の数え方といった異形の怪物的なところこそがマイブラの魅力なのである(それは例えばライドとかスロウダイヴといった他のシューゲイズバンドとは決定的に違う,マイブラの特異な点である)。だから安心して観ていられるようなライブだとおもしろくなくて,今回のライブはバンドとしてのマイブラマイブラっぽさがちゃんと発揮されていた。というか,そのようにしか演奏できないのがマイブラというバンドなのだと思う。

それでYou Made Me Realiseの例のノイズパートである。前回同様に今回もここが一番感動的だったのだが,いかんせん4〜5分くらいで終わってしまって,前回は10分以上はあったように思うので,ちょっと物足りなさを感じた。音量的には,いろいろと心配になってくるくらいの大きさではあった。

ということで,13年前の神懸かり的なライブ(というかケヴィン・シールズのギタープレイ)には到底及ばなかったが,悪くないライブだった。最後に一つ言っておきたいのは,たぶんもう60歳を過ぎていると思うが,ドラムは相変わらずパンクだったということである。

マニ,ご冥福を

もう先々週のことだが,マニが死んでしまった。まさかあのマニがこんなにも早くに亡くなるなんて…という感じだ。

私はストーン・ローゼズの熱心なファンかと言われるとそうでもないのであるが,それでも彼らの2nd(みんなが好きな1stではなく2nd)は昔から割と好きで,時々CDを引っ張り出しては聴いていた。とくに昨年あたりになんとなく音楽のグルーヴにより関心を持ち始めて以来,やはりローゼズの2ndのグルーヴ,マニとレニのリズム隊には改めて感動しきりだった(なお,2ndはジョン・スクワイアのギターも感動的である。Good TImesなどは何度聴いても鳥肌が立つ)。

ということであるが,正直私にとってマニといえば,ストーン・ローゼスよりもプライマル・スクリームなのである(私が生でマニがベースを弾く姿を見たのも,プライマルである)。それで私にとってプライマルは,スクリーマデリカとかではなく,世代的に90年代後半〜2000年代前半のエレクトロ・パンク三部作なのであり,その中でもどれが好きかと言えば,(ヴァニシング・ポイントも捨てがたいが)やっぱりXTRMNTRである。このアルバムでのマニはこれでもかというほど殺気に漲ったベースを弾いており,冒頭1曲目のKill All Hippiesではベースが入ってくる瞬間に一気にボルテージが最高潮に達するし,他にも3曲目のExterminatorの重戦車のようなリフをはじめ,全編にわたって最高の仕事をしている。中でも,今回改めて聴いていて涙が出るほど素晴らしかったのは,6曲目のBlood Money。ダリン・ムーニーのドラムとマニのベースが生む凶悪なグルーヴには,ボビー・ギレスピーもさぞかしご満悦だったに違いあるまい。

マニ,どうかご冥福を。

『〈社会的なもの〉の運命:実践・言説・規律・統治性』

ネオリベラリズムによる福祉国家の解体によって「社会の危機」が唱えられる中,そもそも〈社会的なもの〉ってなんだっけ,ということで,これまでの社会学やその関連領域において〈社会的なもの〉がどのように考えられてきたかを検討する試み。道中では,スペクター&キツセらの社会構築主義エスノメソドロジー(2章),ウェザレルやビリグの言説分析(談話分析)とシェグロフらの会話分析(3章)で〈社会的なもの〉の取り扱いがいかに決定的に違っているかが論じられ(著者はいずれも後者に軍配を上げる),そして,フーコーの言説分析(第4章),規律と統治性(統治の対象として,固有の自然性を伴った〈社会〉なるものの出現)(5章)ときて,改めてウェーバー,デュルケムにおける〈社会的なもの〉が読み直される(6章)。どの章も非常に面白いが,やはりデュルケム,個人ではなく〈社会〉から見た場合,犯罪や自殺は「正常な事態」であり――それらはどの社会においても平均的に見られる現象である――,それらを社会の不可欠の構成要素ですらあると述べるデュルケムの思考こそ,人間とは異なる水準にあり,絶えず人間の意識から逃れ去ろうとする〈社会的なもの〉を捉えようとするものだったのだよ,と(あと個人的には,1章のパーソンズの「規範的/条件的」の区別も興味深かった。われわれの行為を形作るもののうち,意識から逃れ去る要素は「規範的」,意識される要素は「条件的」である。規範的要素を反省的に主題化することは可能だが,その場合それはもはや「規範的」なものではなく「条件的」なものとして,利害関心的な態度でアプローチされるものになる。そして,あらゆる規範を条件的要素に還元することは,行為を不可能にしてしまう)。そして,結論としては,そうした〈社会的なもの〉は福祉国家の危機に伴って融解し終焉を迎えたというわけではなくて(そもそも〈社会的なもの〉は福祉国家の時代に確立したわけでもない),もしも本当に〈社会的なもの〉に危機や終焉があるとすれば,それは〈社会的なもの〉が統治の対象として誕生した時からすでにその中に織り込まれており,それはむしろ〈社会的なもの〉の本来のありようである,と。

『「修養」の日本近代:自分磨きの150年をたどる』

明治から現代へ,修養から自己啓発への流れを辿るということで,アメリカのセルフ・ヘルプ,ニューソートから,新渡戸稲造松下幸之助パナソニック…というよりナショナルか,あとPHP),鈴木清一(ダスキン),そして現代のオンラインサロン等々を論じていく。個人的には,新渡戸稲造のことをあまり知らなかったので,知れてよかった。そして幸いなことに,著者の方と一緒に読書会もさせてもらった。