読んだもの観たもの

I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

『なぜ科学を語ってすれ違うのか ソーカル事件を超えて』

大学院生の頃に読み,その後もいくどか手に取って参照したであろうこの本を,先日改めて読んでいたところ,びっくりしたというか,自分のあまりの不勉強さを恥じたのだが,実証主義というのは反実在論の一種だったんですね。神でないわれわれ人間が到達しうる真理というのは直接的な観察に基づくもののみであり,観察に基づかない命題(理論命題)というのももちろんあってもいいのだが,それはあくまで観察可能な現象を組織立てて説明・予測するという役割を果たすものに過ぎず,この世界の実在を正しく捉えた真理などではなんらない,神の視点を持たない人間は不可視の実在については語りえないのだから,語りえないものについては沈黙せねばならない,ということらしい。まあ,よく考えてみれば話の筋としてはまったくその通りで,なんで今までこういうふうにちゃんと理解してこなかったのだろう,と思うと,それはまあ,たぶんバレル=モーガン(1979)の例の区分のせいだろう。それで,バレル=モーガン実証主義について論じた箇所も読み直してみると,そこでは実証主義はあくまで認識論として論じられており,それが実在論であるとはじつは一言も書かれていないのだが,あんなふうな二元論的なまとめ方をされてしまうと,ふつうは実証主義実在論として読んでしまうじゃないですか…(実際,組織研究者の多くはそう理解していると思う)。で,私は過去に,組織への介入について書いた論文の中で,実証主義的方法を反実在論的に捉え直して論じたことがあり,それは議論としてはまったく正しかったのだが,「捉え直した」どころかただ当たり前のことを論じていただけだったということで,なんか恥ずかしくなった。

あと,実在論についても,ありがちな誤解が指摘されている。実在論というと,〇〇が実在することを想定する立場であると思いがちだが,じつはそうではなく,それは世界の真なる記述を目指すという立場であり,だから「〇〇は実在しない(たとえば「構築されたものである」とか)」ということについての真なる記述を行おうとするのも,それも実在論であるとのこと。

『忌録: document X』

年末年始に読んでたモキュメンタリーからの流れで。近頃似たような作品を読みすぎて,正直どれがどれだが整理がつかなくなってきているが,私としては,これが一番良くできていると感じたかな。短編が4話収録されているのだが,それぞれは一本の物語というよりも著者が収集した資料集という体で,それら資料はオカルト的な文書であったり,ブログであったり,電子メールの抜粋であったり,写真画像であったり,その他さまざまな記録・報告書であったりするのだが,初読時はその資料の中のとくにオカルト文書をホラー作品として読んで楽しむことになり,その後は,それぞれの資料を突き合わせることで浮かび上がってくるものを,ネット上の考察とかを見ながら,ミステリ的に楽しむことになるという気の利いた作品。

『「能力」の生きづらさをほぐす』

よい本です。著者は教育社会学を学んだ組織開発コンサルタントの方だということで,ハイパーメリトクラシーとか人材開発業界(能力屋)とかの問題点を指摘した上で,個人の能力ではなくて,組織内での機能という観点で人材の配置を考えましょう,という組織論的な解決策も示してくれる,こんなふうに,組織開発というのは人材開発とは違うのだということもわかりやすく書いてくれる,ということで,組織論的な考え方の習得にも役立つので,学生におすすめしようと思った本だった。

個人的には,ヘイ・グループかどっかがやっているという組織風土改革の売り文句が,風土は組織の内部者には十分に把握できません(外部者の客観的視点が必要です)とか,風土はリーダーシップによって決まりますとか,もう身に覚えがありすぎて,改めてよくできた物語であるなと感心するなど。

“THEE MOVIE” LAST HEAVEN 031011

チバ追悼上映ということで,映画館で見てきた。初見だと思っていたのだが,昔に一度見たことあった。2003年幕張メッセの解散ライブの映像を中心とした,終末感漂う後期ミッシェル。

ミッシェルというバンドには明らかな絶頂期があって,それはもちろんギヤ・ブルーズの前後あたりだろう。私がミッシェルを聴き始めたのも,その頃だった。初めてミッシェルの名を知ったのは,バードメンだったと思う。当時はバンドといえばヴィジュアル系全盛の時代で,中学生だった私もそのご多分に漏れなかった。だからその時は,スーツ姿で「アーアー」とがなりたてるように歌うバンドをテレビで見かけてちょっと気になったというくらいだったのだが,その後,友達から「ミッシェル・ガン・エレファントっていうかっこいいバンドがいるよ」と紹介され,「あ,そのバンド知ってる」と思った私は,友達にカセットテープをコピーしてもらい,確かハイ・タイムとギヤ・ブルーズから10数曲ほど選曲されていたと思うが,それで家に帰って自分の部屋でテープを再生した瞬間,それまではJポップしか知らなかった中学3年生の耳にロックンロールは鳴り響いたのだった。

初めてバンドを組んでスタジオに入ったのもその頃で,その友達とミッシェルのコピーをした。確かキャンディ・ハウスとか,スモーキン・ビリーとかをやったと思う。当時私が持っていたのはレスポール風のギターだったので,どうにもおかしな具合だったが,ともかくロックとつながった私は,なにか一気に世界が開けていくような,そんな感覚だったのだ。

その後,高校入学とともにフェンダーテレキャスターを買ってもらった私は,学校が終わるとまっすぐに家に帰り,毎日アベのギターをコピーした。ロックギターの基本的なことは,だいたいアベから学んだ。♭3や♭5のブルースのフレーズとか,「ジミヘンコード」という呼び名も当時は知らずに「ミッシェル・コード」だと思っていたE7(#9)とか。ワールド・サイコ・ブルーズのライブビデオも,毎日のように繰り返し何度も何度も見た。

だが,その頃からミッシェルは,アルバムをリリースするごとに,確実に死に向かっていった。今にして思えばということかもしれないが,カサノバ・スネイクは,そのカラッとした音とは裏腹に,どこか変だなという感じもした。続くロデオ・タンデム・ビート・スペクターは,明らかに一線を踏み越えた印象だった。アルバムの中心的なイメージが「亡霊」だったのも,偶然ではないだろう。たぶんこの時にバンドはすでに死んでいたのだ(それでも,ロデオ・タンデムはよいアルバムだったと思う)。最後のサブリナの2枚では,もはやゾンビとしても形を保てるギリギリの状態のようで,そのうち崩れてゆくのは明白だった。だから,解散と聞いた時もとくに驚かなかった。彼ら自身,その頃には天国(ヘブン)—あるいは,他のどこか(ノー・ヘブン)であれ—を望み,〈夜〉を終わらせようとしていたのだから。

それで,この解散ライブ。バンドの死について書いたのも,今回この映画を見て,そうした印象を改めてはっきりと感じたからだ。うまく説明できないが,崩壊寸前のバンドが最後に渾身の力を振り絞るとか,そういう感じではない。なんというか,すでに亡霊となったバンドの,もはや取り返しのつかない形で失われたはずの生命を,どうにか再び燃え上がらせ,燃やし尽くそうとするような,それも,もう二度とかつてのようにはいかないことを知った上でなお,バンドを終わらせるためにはそうせざるをえないというような,そんな悲痛さを感じる。途中に差し挟まれる98年のフジロックでの勢い有り余るライブ映像と見比べると,この解散ライブはあまりに悲愴である。とくにアベがつらそうだ。チバは,誰よりも固い決意を持って,残酷にも見えるほど着実に,ミッシェルを終わらせようとしているように見える。

今後,またこの映画(や解散ライブの映像)を見ることがあるかどうかはわからないが(見直したらまた印象が変わるかもしれないが),ひとまず今回はこんな感想。

年末年始はモキュメンタリーだった

メタフィクションとか好きなくせに,最近までモキュメンタリーという言葉すら知らなかった怠惰な私であるが,年末年始に夜更かししながら,この辺の話題になっている本はとりあえず押さえてみた。

それで,大森時生さんというテレ東のプロデューサーの人を知り,『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』とか『このテープもってないですか?』も押さえ,今は皆口大地さん,寺内康太郎さんのフェイクドキュメンタリーQに落ち着いている。