読んだもの観たもの

I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

チバが死んでしまった

とてもではないが,まだ「ご冥福をお祈りします」なんて言葉を口にするような気持ちにはなれない。中3の頃にミッシェル・ガン・エレファントに憧れてバンドを始め,音楽を聴き漁るようになった私にとって,チバが死んだと言われても,そう簡単には受け入れられるはずがない。

アベが死んだ時は,私にとってアベというのはひたすら真っ直ぐな人だったので,ただ「合掌!」と見送ればよかったのだが,チバの場合はそうはいかない。傍若無人で豪快そうにしていても,初期の歌詞を見ればわかるように,妙にいじけたところのある人で,私にとってはそういうところが魅力だった。だから,単にすっぱり見送るだけではダメなのだ。

私はミッシェル・ガン・エレファントという「バンド」が好きで,「ミッシェル・ガン・エレファントのチバ」が好きだったので,ミッシェル以降のチバの活動はあまり真面目に追いかけていない。ザ・バースデイとかも,何曲か好きな曲があるというくらいで,そのライブ映像を時々YouTubeで見たりするぐらいなので(藤井さんのギターがいつもいいなと思って見ていた),アルバムごとにどうとかいう印象を持つほども聴いていない。

それでも,最近のチバがどんな音楽をやっているか,どんなことを歌っているかとか,自分が歳をとるのにつれてチバも老けたなあ(めちゃくちゃ老けたなあ)とか,そういうことを気にしながらこれまで生きてきたし,これからもそうして生きていくのだと思っていた。癌で休養すると聞いた時も,それで死んでしまうなんて夢にも思わず,すぐに帰ってきて,今までと同じようにライブでもして,私はそれをまたYouTubeで見たり,都合が合えばフェスとかでも見かけたりするのだろうと思っていたわけである。だから,こんなにも早くチバのいない世界が訪れて,途方に暮れている。

Mann & Likert(1952)The Need for Research on the Communication of Research Results

https://www.jstor.org/stable/44124252

マン&リッカートのいわゆるサーベイフィードバック論文。ただ読んでみたら、ここでは「サーベイフィードバック」という名前は登場していないのね。一体誰が言い出したのやら…。

測定という技術によって、「態度」や「感情」といった知識の元に人々の活動を組織化するということを試みたリッカートであるが、肝心の測定結果を組織に返すときに、ふつうに返すだけでは「ふーん」でそのうち忘れ去られて終わりになる。だから、いかに組織のメンバーに測定結果を活用してもらい、組織の変化を導くか、そのテクニックについて論じる(とともに、さらなる研究を呼びかける)という論文。それで、それらのテクニックには、動機づけ理論とか集団力学が応用されるとのこと。基本原則は、データの「解釈」にメンバーを参加させることであり、研究者は調査はするけれど、解釈の専門家であってはならないとか。それで、そうした解釈もやはりグループ討議方式で行われるべきで、そうするとグループの合意が集団規範としてメンバーに遵守に向けたプレッシャーを与えるので、それを活用するのだよ、と。あとは、調査結果は「客観的事実」ということなのだが、それが望ましくないものであった場合には、その正確性をあまりに強調しすぎるとメンバーたちの面目を失わせたりするので、そういう時はまず本人たちの面目を保つほうが先決である、とか書かれているのもおもしろい。この辺はリッカートの主著ではほとんど書かれていなかったことで(確かこの点をテーマにした本を書くとか宣言していたはずだが、結局書かれなかったようである)、主著だけだとリッカート理解にも若干偏りが生まれてしまうので、合わせて読んでおいてよかった。

『集団力学 グループ・ダイナミックス』

ブログを更新している暇がなかなかなかったのだが、この10月はこれまで避けて通ってきた集団力学について勉強しなおしていたのだった。これはそのうちの一冊。それでまあ、集団力学がその当初より人間・社会工学の技法の開発を目指していたということを私は最近まで知らなかったのだが、この本の冒頭でも、集団力学がそうした技法であるということは、やっぱり当時は常識だったみたいで、ちゃんと書かれていますね。それで、どうでもいいことだが、この本の邦題はもしかして、「川沿いリバーサイド」的なやつではないか…。

『企業が求める〈主体性〉とは何か 教育と労働をつなぐ〈主体性〉言説の分析』

昨今、「主体性」という言葉はとにかくポジティブな価値を帯びたものとして、各方面でご都合主義的に多用されまくっているキラキラワードなので、私などはもうこの言葉に対してはほとんど不信感しかないのだが、たぶん同じような批判的関心のもと、企業が求める「主体性」とは一体何であるのかを、経済団体の提言、『就職四季報』、そして管理職のインタビューをもとに整理してみようではないか、というのがこの本。

で、整理してみると、企業が求める「主体性」には、「自分なりに考える」「発信する」「仕事に関して協働する」という成分が含まれているとのこと。なお、これらの成分について本書ではあまり突っ込んだ議論がなされないのだが、「自分なりに考える」「発信する」「協働する」というのはどれも相当に大きなテーマであって、それを「主体性」という言葉でふわっとした感じで求められる、例えば若手社員や学生たちは、そりゃあ地獄でしょう。例えば、「協働する」ということひとつとってみても、C. I. バーナード以来の(少なくともバーナードを継承した)組織論は、協働を個々人の資質・属性・能力――例えば「主体性」として名指されるような何か――に還元できないものとして、人的・物的・社会的要因そして組織からなるシステムとして取り扱い、そのマネジメントを考えるということをやってきたわけだが、そうした思考が「主体性」というキラキラしたなんとなくの雰囲気によって塗りつぶされつつあるのが昨今の状況なわけである。

で、これは本書でも指摘されているのだが、若手社員は日々、こうした「主体性」を有しているかどうかを、上司や先輩から、その発言や行動、仕事のスケジュール感、成果などをもとに評価・査定されており、また、こうした「主体性」を発揮するようお膳立てられてもいる。結果、若手社員にとって「主体性」とは、上司や先輩の査定の眼差しのなかでよい評価を得るために発揮せねばならないものとして経験されており、そこでは主体性を自身の内発的な動機に関連づけることはもはや困難になっている(そしてこれは、内発的な主体性なるものにより大きな価値を置くことにつながり、企業が求めるところの資本に奉仕する「主体性」と私の内奥から湧き出す真正な主体性の衝突、みたいな物語にまた燃料を注ぐことになるだろう)。

そして私はといえば、「主体性」というキラキラワードはやはり抹消した方がいいのではないかと、改めて思うのだった。

『女ともだち 靜代に捧ぐ』

コロナで心身ともに弱ってしまって、自分などにはもうなにも成し遂げられないのではないかというような気持ちで寝込んでいた時に、まあ聴くものといえば早川義夫なわけで、そのままこれも一気読み。こういう時は、スッとストレートに入ってくる文章がよいのである。

『社会的構築主義への招待 言説分析とは何か』

バーの最近の論文を読んだので、ついでにふりかえり。

7〜9章に人であること(personhood)の議論あり。

冨樫義博展に行ってきた/行けなかった

もう先週の話になるが、グランフロントでやっている冨樫義博展に行ってきた。平日の昼間だし気楽な感じで入れるだろうと高を括っていたら、なんと長蛇の列(!)…というわけではないが、どこからともなくウヨウヨと人が群がってくる、それもひと目見てわかる「それっぽい人」がワラワラとやってくるのでほほえましくなったのだが、まあそんな感じだったので、入場整理がなかなかに厳格だったわけです(つまり、私がちゃんとチケットの時間を確認しなかったのが悪かったのですが、入場まで30分ほど待たされることになったわけです)。

それはさておき、原画展ということで、幽遊白書レベルEHUNTER×HUNTERの名シーンは大体網羅されている感じ(てんで性悪キューピッドとかも、一応申し訳程度にある)。私は漫画の原画というものをたぶん今までに一度も生で見たことがなかったので、いざ原画を見た感想としては、漫画家さんというのはちょっと尋常でないくらい絵がうまいなぁというもの。原画で見るとスクリーントーンとかちょっと凸凹しているのだけど、印刷してみると自然な感じになるのはへぇという感じだった。いずれにせよ、こんなクオリティのもの(絵だけでなく、話も作らないといけないわけだし)を出し続けるとか、連載作家さんは大変だなぁ。

で、行ったのはよかったものの、後ろの予定がつかえていたために(というか、杓子定規な入場整理のせいで、と言いたい)じっくり見きれなかったので、今週にもう一度リベンジするつもりだったのだが、まあ、子供がコロナに感染してしまい、家族全員共倒れで、行けなかったのである。