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I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

『企業が求める〈主体性〉とは何か 教育と労働をつなぐ〈主体性〉言説の分析』

昨今、「主体性」という言葉はとにかくポジティブな価値を帯びたものとして、各方面でご都合主義的に多用されまくっているキラキラワードなので、私などはもうこの言葉に対してはほとんど不信感しかないのだが、たぶん同じような批判的関心のもと、企業が求める「主体性」とは一体何であるのかを、経済団体の提言、『就職四季報』、そして管理職のインタビューをもとに整理してみようではないか、というのがこの本。

で、整理してみると、企業が求める「主体性」には、「自分なりに考える」「発信する」「仕事に関して協働する」という成分が含まれているとのこと。なお、これらの成分について本書ではあまり突っ込んだ議論がなされないのだが、「自分なりに考える」「発信する」「協働する」というのはどれも相当に大きなテーマであって、それを「主体性」という言葉でふわっとした感じで求められる、例えば若手社員や学生たちは、そりゃあ地獄でしょう。例えば、「協働する」ということひとつとってみても、C. I. バーナード以来の(少なくともバーナードを継承した)組織論は、協働を個々人の資質・属性・能力――例えば「主体性」として名指されるような何か――に還元できないものとして、人的・物的・社会的要因そして組織からなるシステムとして取り扱い、そのマネジメントを考えるということをやってきたわけだが、そうした思考が「主体性」というキラキラしたなんとなくの雰囲気によって塗りつぶされつつあるのが昨今の状況なわけである。

で、これは本書でも指摘されているのだが、若手社員は日々、こうした「主体性」を有しているかどうかを、上司や先輩から、その発言や行動、仕事のスケジュール感、成果などをもとに評価・査定されており、また、こうした「主体性」を発揮するようお膳立てられてもいる。結果、若手社員にとって「主体性」とは、上司や先輩の査定の眼差しのなかでよい評価を得るために発揮せねばならないものとして経験されており、そこでは主体性を自身の内発的な動機に関連づけることはもはや困難になっている(そしてこれは、内発的な主体性なるものにより大きな価値を置くことにつながり、企業が求めるところの資本に奉仕する「主体性」と私の内奥から湧き出す真正な主体性の衝突、みたいな物語にまた燃料を注ぐことになるだろう)。

そして私はといえば、「主体性」というキラキラワードはやはり抹消した方がいいのではないかと、改めて思うのだった。