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I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

『社会学的方法の規準』

ここ最近は、自分の問題関心的にこれからどのような方法で研究を進めていこうかということを考えていて、言説分析とかどうだろうということで、フーコーの著作とかを少しずつ読みながらああでもないこうでもないと考えていたら、だんだんとわけがわからなくなってきて、それで基本に立ち戻ろうということで、デュルケム。

で、このデュルケムなんですが、社会学という学問を創始するにあたって社会学の方法規準を確立していくのだが、そのポイントは、社会的要因によって個人の意識とか行為を説明するといういわゆる後の社会学的なアプローチをとろうとしていたのではない、ということ。デュルケムが構想した社会学というのは、あくまで社会によって社会を説明する、というもの。確かに、社会的事実とは何かを説明する箇所では、その個人に対する外在性および拘束力を挙げ、それが個々人の意識や行為へ及ぼす影響について言及したりもするのだが、そうした説明は、社会的事実なる実在をわれわれが感知しうるために有用であるからしているというだけであって、デュルケム社会学の主題はあくまで社会によって社会を説明すること、通常は(社会学的な視線を向けない限りは)個々人の意識の外部に流れ出ているようなもの(=社会的事実)こそを固有の対象とする学問だということである。

だから例えば『自殺論』でも、宗教とかなんやらの社会的要因が個々人の自殺にどう影響を与えるかということを問題にしているのではなく、それぞれの社会における自殺率——それは、毎年固有の率で自殺者を産み出している——こそを問題にしている(いうまでもなく、自殺していく個々人は、その社会の自殺率(の増減)を規則正しく保つことを意識しながら自死を選ぶわけではない=自殺率は、個々人の意識の外部に流れ出ている)。

で、社会学とは第一に、そうした社会的事実がどのように生じ、どのようにして現在の姿になっているのか、その成立条件(これはもちろん個人の意識や行為ではなく、社会に求められることになる)を問い、第二に、そうした社会的事実がいかなる機能を果たしているのか(むろんこれも、個々人にとっての機能ではなく、社会にとっての機能)を問う学問であるということになる。デュルケムが再三強調するのは、社会なるものを個人の意識・心理・意図・利害等に還元しないことであり——例えば、人々が感ずる「愛情」とか「安心感」によって「家族」を説明したりしない(それは心理学の仕事である)ということ——、そうして社会学は、哲学でも心理学でもない独自の経験的学問として成立するというわけ。

という具合に、デュルケムの社会学的思考は、個人の意識や心理に立ち入ることなく(それらは社会学にとっては枝葉末節の問題であるとして除外し)、社会を社会によって説明しようとする点で一貫している。で、これが個人を実在と考える人たちからすると不評を買うポイントで、こうした人たちによると、個人の意識や心理を通さずに社会を論じるなどということはありえないし、なによりデュルケムの論法は個人の主体性を無視した社会決定論に過ぎない、ということになる。けれども、そもそもデュルケムは社会によって個人を説明するような論理構成をとらない、と言っているわけで、そして、個人の意識を経由せずとも社会は説明できる/むしろしない方がより適切に説明できることを論証しようとしているわけなので、以上のような非難は、デュルケムの議論を無理やり自分の土俵に乗せることによってしか成立しえない。また、そもそもデュルケムにしてみれば、社会と個人を対置し両者の関係を思考するような思考様式それ自体が、近代社会に特有の——そして社会学的視線を向けない限り、われわれ近代人の意識が取り逃がし続ける——社会的事実なのであり、社会学によってその成立条件と機能が考察されるべき対象ということになる。

うーむ、個々人の意識から流れ出し続けるレベルに社会的事実を位置付け、それに着目するというアイデア、むっちゃんこいいね。

(なお、デュルケムの読解に当たっては以下の論文も参照。とてもよい論文です。)