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I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

『組織行動論の考え方・使い方 良質のエビデンスを手にするために』

服部さんの本。科学が実践に役立つとはどういうことかという問いに、組織行動論、そして、実証主義の立場から一つの答えを与える本。ざっくり言うと、(1)経験的世界を捉える理論や概念を実践家に提供すること、(2)そうして実践家のしろうと理論を相対化し鍛え上げること、がその答えになる。もうちょっと詳しく触れておくと、学術的理論や概念のレンズを通して世界を見るということは、それらがいかに精緻なものであろうと、そこに映るのは一種の虚像ではある、が、それにもかかわらず、それは実践家の実践へと貢献する——なぜなら、それは経験的世界についての深い/フィットした理解を与えてくれるから(この辺のロジックが十分に拾えなかったが、虚構であるとしても、より経験的世界に近似した虚構となる、ということ?)——というもの(服部さんも引用しているように、パーソンズ的世界観?)。自分的には、組織が人間をはじめとする様々なものを数値化することを通じて自らを組織化していく様子、および、そのための測定という技術に関心を持っており、組織行動論の現代的トピックスを測定尺度とともにレビューしてくれているのが嬉しかった(尺度を色々とまとめてくれているのは、学生の卒論指導の際にもめちゃくちゃ便利)。

で、もう一つ自分的に気になったところなのだけど、ハース&シトキンを引用しながら挙げられている中心性問題、組織行動論の各トピックが、組織そのものを理解するのににどれほど貢献しているかという問題だが、自分の理解ではこれは、組織なる集合的存在がどのように生まれるのか(=組織化されるのか)、図式的に書けば「部分 ⇒ 全体(組織)」の「⇒」とはどのようなものであるのかを解明する問いだと思っている。服部さんの議論を読んでいると、この「⇒」をふつうに「集積」というように落着させているように読めるのだが、この辺り、どう考えているのか聞いてみたいと思った。本書でも取り上げられている人的資本論なんかはもろに、組織を個人の集積とみなし、人的資本の蓄積が組織の競争優位につながるとし、そのことも実証されているそうなのだが、それがどのようなロジックであるのか——つまり、部分(人的資本)⇒ 全体(組織の競争優位)の「⇒」の部分——はまだ明らかになっていないそう。もっと言うと、「全体(組織)」を構成する「部分」には具体的に何が入るのかというのも気になる。人的資本論だと、「個人(が保有する能力や知識)」が「部分」だと想定されているが、自分としてはバーナード的に「活動」を「部分」として考えたくなる。そうすると、組織を構成する活動としては、どのような活動であってもいいということにはならず、あくまで「組織としての活動」ということになるため、ある活動がどのようにして「組織としての活動」として了解されるのかという問題が出てくる。この了解という手続きを理論内に取り込もうとすると結構厄介で、人的資本論の場合は、実体として存在する「部分(個人、およびその能力やスキル等)」から議論を立ち上げ「全体」へと進むことができる(できるということにしている)のだが、組織の「部分」を「組織としての活動」とした場合、「部分」は組織という「全体」からその「部分」として了解されるという手続きを経ないといけないことになり、しかも、こうした了解というのは常に事後的で変更可能なものである(組織のために良かれと思ってやったふるまいが、後から非難されて「勝手な(=個人的な)ふるまい」と意味づけられる、等々)。だから「部分」をまず実体的に置いて、そこから「全体」へと進んでいく、ということができない。だからこそ、「⇒」の箇所が問題になるわけであって、というかそもそも「部分 ⇒ 全体」という図式でいけるかどうかも怪しいのであって、この辺どう考える?というのが自分的なハース&シトキンのBig-O問題(中心性問題)の理解。というのも、ここをしっかり考えないと、組織行動論というのは結局、contextualized-Bに回収されてしまう、ように思うのだけどなぁ。