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『資本主義リアリズム』

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

 

近頃、資本主義というものへの興味が尽きない。まあ資本主義というのは後で触れるようになかなか論じるのが難しいのだけれど、そんな中、この本は資本主義への対抗戦略を論じるというもの。 

本書のタイトルにもなっている資本主義リアリズムというのは、資本主義以外の道が見つからない、そもそも「そんなのあるわけない」としてオルタナティヴを想像すらできないという態度(が蔓延した状況)のことを指す。で、こうした資本主義リアリズムにおいて資本主義は強化・延命し続けるわけで、そこをなんとか切り崩せまいかということを論じていくわけなのだけど、資本主義というのは厄介で、あらゆる異物を巧みに取り込む怪物のようなものであり、単に資本主義を批判するだけでは、批判は即座に資本主義に取り込まれ、利用されてしまう。この辺は、カート・コバーンとかオーセンティシティ(自分らしさ)を参照すれば容易にわかるように、カウンター・カルチャーも簡単にメインストリームの「スタイル」に成り下がり、高い市場価値を持ってしまうわけである。さらに、資本主義に悪の元凶として責任を帰責されるような主体はいない。私たちはつい、政府や大企業、ないし一部の個人を元凶として責め立てたがるのだが、そのようなふるまいこそが、資本主義という主体ならざる(責任を帰責できない)「構造」から目をそらしてしまうことになる。反資本主義、脱資本主義の理想社会を語るのもダメで、上述のようにそうしたふるまいは即時に資本主義に回収され利用されるし、そうした内面レベルでの資本主義への関与の否定が、行動レベルでの資本主義への関与の見ないふりにつながっている。

…というわけで、資本主義に対抗するためには、変にオルタナティヴを語ることではなく、資本主義リアリズムの裂け目にこそ注目せよ、そうして、われわれの抱くリアリズムがそれほどリアルでないことを示せ——つまり必要なのは、私たちが抱くリアリティを脱自然化するポリティクスである——ということらしい。著者によるとそのための突破口は、環境問題、精神障害、官僚制組織らへんにあるとのこと。で、とくに本書では精神障害と官僚制が論じられる。精神障害の増加を個人の神経学的問題に還元するのが資本主義(新自由主義)であり、それに対して、精神障害を社会・政治上の問題として論じていくこと。そして、新自由主義の掲げる脱官僚制はむしろお役所主義を増加させ、そこでは成功そのものよりも成功の広報(成功しているという見せかけを示すこと)、「自分たちは何かをやっている」というアリバイ作りに皆が専念している(これはグレーバーのいう「ブルシット・ジョブ」だろう)。また、現代の官僚制組織においては、充分はもはや充分ではなくなった——われわれは自発的に決められた「以上」のことを達成せねばならなくなった——のであり、わたしたちは成功の広報という空虚で際限ない仕事を常に自発的に自身に課しており、こうした自傷癖がわれわれを精神障害へと追い立てる(ちなみに、こうした中で「健全」であるためには、都合よく特定のリアリティを忘れ去る——内面レベルでは役所仕事の無意味さを批判しつつ、行動レベルでは役所主義への自分の関与・貢献を見ないふりする——というように、健忘症的であるしかないとのこと。いうまでもなく、こうした身振りが資本主義リアリズムに貢献する)。

というわけで足早に全編をまとめてみたけれど、こんな感じのことが著者の得意分野である映画・音楽をはじめとする文化論を交えながら展開される。未来へ向けた著作でありながら、希望を語るというよりは、あまりに絶望的なトーンで埋め尽くされており、事実、著者は数年前に自ら命を絶ってしまったのだが、個人的にこういう著作は、嫌いではない。10代の頃に初めて聴いて、その後も事あるごとに聴き返すCDのような感触があったりもする(表紙がレディヘだから、というわけではたぶんない)。