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I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

『カルト・マネジメント 経営学に学ぶブラック企業の作り方』

話題の本ということで。

経営学を、ブラック企業を作る方法(「働かせてくれてありがとうございます、給料はいりません」という従業員を作り上げる方法)として読んでみた、という本。マネジメント理論というのは、それが優れた理論であればあるほど、カルト・マネジメントとして読み取ることもできるし、そうした理論が人々によく知られ定着すればするほど、カルト的運用の可能性も開かれていく。ということをわざわざ教えてくれる著者は、たぶんいい人なのである。

本の内容的にも、ブラック企業を作り上げていくには、人の使い捨てなんぞをしているようではダメで、優秀な人材を長くこき使う仕組みを作らないといけない、一見してブラック企業だとバレてしまうような会社もダメで、ブラック企業にこそ社会的・理念的な「正しさ」が必要である、という感じで、決して法に背くようなことが勧められるわけではない。で、こうしたやり口を通じて作り上げんとする「働かせてくれてありがとうございます、給料はいりません」という従業員像こそ、パッと見はどぎつく見えるけれど、もう少しまろやかに言い換えれば「そこまでの高給は求めていません、仕事のやりがいと安定を得たいんです」というようなごくふつうの従業員であって、こうした従業員に長期の雇用と社会的・理念的な「正しさ」を与えるマネジメントともなれば、それはもうブラックというかむしろ、至極まともなマネジメント論の範疇に収まるのである。ということで、本書が掲げる「ブラック企業を作る」というのは、議論にブラック・ユーモアを味付けして読みやすくするというのと、あとは経営学(とくにミクロ組織論?)に対する「毒にも薬にもならない」というような致命的なイメージから経営学の毒性=薬性をサルベージするためのものという感じで、やはりこの著者はいい人なのである。

それで、本書を読んで私が気になった、というか前々から気になっているのは、人々が企業に対して感じる「ブラックさ」とは、いったい何に起因しているのだろうか、ということ。学生なんかもよく企業を「ブラック/ホワイト」に分けたがるが、もちろん「ブラック/ホワイト」の定義を参照すれば分けることもできるのだろうけど、「幸せなブラック企業」などという表現もあるように、これは労働条件上の定義的な分類で解決する問題ではない。それでもし、本書で論じられているような企業経営のあり方が「ブラック」と読み手に感じられるとするならば、そうしたイメージはどこから読み取られているのだろうか。実際、この本で説かれている「カルト・マネジメント」というのは、法的にも社会的・理念的にも(一応は)「正しい」ことを推奨するわけだし、もちろん本書が目指すところの「儲かる企業」を作ることが悪いわけでもない。まあ、儲けをちゃんと従業員に配分しないのが「ブラック」であると言われれば、それは確かに「ブラック」っぽいが。 あるいは、従業員をマネジメントする際に、そこに従業員からは気づかれないような種々の仕掛けを仕込んでおくというのが「ブラック」なのか? 理念とか正しさをそれ自体「目的」とせずに「手段」としてこっそり使うということが「ブラックさ」に結びついているのか? うーん、そもそもこれぐらいの策略で「ブラックさ」を感じるほど、そんなにわれわれはベタに企業なるものを信じているのか? これ、どうなんでしょうね。学生に聞いてみようかな。

(追記)ちょっと書き足しておくと、「ブラックさ」の重要な成分のひとつとされるものに、「従業員に虚偽の意識を抱かせる」ということがあるだろう。「幸せなブラック企業」とかまさにそうで、「『客観的な労働基準からいうとうちの会社はブラックに該当するけど、私は幸せに働いている』という当事者水準の意識は虚偽であり、企業によって植えつけられたものである」という感じ。で、この虚偽意識論で「ブラックさ」を論じるには、当事者の意識を虚偽であると断定する視線が必要になる。この視線は言うまでもなく超越的な目線であり、当事者が同様の超越的な目線を持ちえないことを前提として(なぜなら虚偽意識を抱かされているから)、自身は超越的に当事者の意識を論じるというふるまいである。私たちはついこうした論じ方をしてしまうし、こうした論じ方が有効である局面も多々ある。けれど、現代ではこうした超越性(に立った虚偽意識批判)は、たいていは嫌われるものであり、こうした超越的なブラック企業認定に対しては、個人の主観(感じ方は人それぞれ)として相対化するふるまいも一般化している(だから結局「ブラック/ホワイト」認定は、長時間労働などの労働条件という客観的な基準によるものに差し戻るのだが、それはまた「客観的にはブラックだが主観的にはホワイト」という論法を生み出し、それがまた虚偽意識批判に意義を与えそれを延命させることにもなる)。