読んだもの観たもの

I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

「松本人志についてのノート」、一日中考えていられるくらいおもしろい

松本人志についてのノート」、一日中考えていられるくらいおもしろかった。

note.mu

松本人志というのは、世間で言われているような天才でも神でもなく、むしろ天才や神であることを詐称し続けた凡人である。この指摘にまずクラクラくるが、このことは松本人志の「笑い」のまさに核心につながっており、あらゆる価値を嘲笑い、なし崩し的に無効化していく、そうすることによって自身が「神」であるかのように「空気」を支配していく、というのが松本的「笑い=悪意」である、という。

松本的な悪意とは、善悪や真偽などの区別自体を無意味化していく悪意であり、この世には様々な価値観を持つ人間たちが多事総論によって新しい価値をたえまなく生み出していく、というアレント的な「政治=公共性」の意味を根こそぎに嘲弄し、虚無のアビスへと引きずり込んでいくような「悪意」としての「笑い」であるからだ。

こうした松本の「笑い」には、なんらかの精神や知性、人々の営みに対する関心は一切なく、そこにはただひたすら寒々とした空虚が広がるのみである。そして、その空虚さゆえに悪意もまた底なしであり、それは松本本人をも喰い尽し、今なお増殖し続けている。というわけで、かつてのそれこそ「神懸かり」はどこへやら、裸の王様の様相を呈している現在の姿を見て、「松っちゃんは変わってしまった」と嘆くのは間違っており、むしろ松本人志はまったく変わろうとしなかったのだ、ということらしい。

で、筆者が試みるのは、そうした様子を「公然と」描きだすこと=批判することなのだが、なんでわざわざそんなことをするかというと、まあ主な理由としては「それが批評だから」なのだが、他方では、それが私たち自身の内面(の空疎さ)を生々しく暴き出すことでもあるかららしい(まあ、筆者はあまり強調してないが、そうだということにしておこう)。

むしろ必要なのは、政治/お笑いという二元論を超えて、松本のお笑いと芸の核心にあるその凡庸さ、陳腐さ、空疎さを――しかもその可能性の中心において――えぐりだし、あばきたてて、それを公然と批判することではないか。
だがそれは当然、近代社会を生きる僕らの内なる凡庸さ、陳腐さ、空疎さを見つめることでもある。 

つまり、圧倒的な空虚さは、松本本人のみならず、私たちをもすでに食い尽くし増殖してしまっている。だからこそ松本人志の笑いは恐るべき感染力を発揮したのだし、そうして「笑いの神様」に熱狂し、お笑いを「わかっている」ような顔で悦に浸っていた私たちもまた、なんてことはない、まったく凡庸な人間だったということらしい。まあそれはいいとして、つまり、ここで筆者が試みている批判は、松本人志に向けられたものであるだけでなく、ある程度は私たち自身に向けられたものでもあり、私たちにとってあまりに身近で親密な空疎さ凡庸さに対して、空気を読むことなくはっきりと抗おう、そうして、論争と論戦の気風を爽やかに導き入れよう、ということらしいのだ。

そういうわけで、このテクストはかなり強靭と言えば強靱な論調で進んでいくことになるのだが、しかし同時にそこには、ある種の可笑しさ、それも不穏な類の可笑しさがつきまとっている。

例えば、このテクストの終わり方は印象的である。筆者は、松本的な空疎さをひと通り批判し終えた上で、今度は逆にその深淵を「さらに底まで降りていく」先に何がありえるかという問いをいちおうは立ててみて(実際、松本人志についても、いびつさと普遍性が同居した異様な作家性を獲得できたかもしれない、みたいなことをほんの少しだけ思ったりしている)、次のように論考を終える。

ならば、この空疎な嘲弄のニヒリズムのさらに底まで降りていくとき、そのアビスのいちばん奥の方から、腹の底からの快活な笑いがあふれだすことは、永遠にありえないのだろうか――あいかわらず、凡庸で陳腐で空疎な近代人としてのこの僕は、その深淵を前にして、不安げに立ち止まり、何を言っていいのかもわからず、生まれる前から疲れていたような疲れの中で佇み続けるしかないのである。(終わり)

というわけで、なんとなれば筆者もまた凡庸で陳腐で空疎な「僕」であるらしく、どうも凡庸さ陳腐さ空疎さの深淵は、それを批判するにせよ、あえて底まで降りていくにせよ、爽やかには突き抜けられなさそうであるし、どうやらそのことも最初からわかっていたようなのだ。そんなわけで、この「松本人志についてのノート」というテクスト自体が、戦う前からどこか敗北しているような感じ、筆者の言葉を借りるなら「生まれる前から疲れていたような」感じを漂わせており、どこか松本的「笑い」にも通じるような不気味なトーンを帯びることになる。

もちろん、これは筆者への嫌味で言ってるわけではまったくなく、そういうもの、そうとしてでしか書けないものなのだろうと思うし、さらに自己言及させるなら、こうした不気味さをまとうテクストを一日中考えられていられるほど「おもしろい」と感じ、こうしてブログに書き綴ること自体が、まさに不気味なものであるのかもしれない。はてさて、この先に「腹の底からの快活な笑いがあふれだす」ことはあるのだろうか、というわけで、なんか最終的にはわりかし深刻な感じになってしまったが、要するに、この記事はおもしろかった、ということで。