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I'm not a very good communicator, so maybe that's why I write about talking

『ファイト・クラブ』

こないだ『セブン』を見たので、デヴィッド・フィンチャー監督つながりで見た。見始めたら最後まで一気に見てしまうという感じでエンタメ的には面白いのだけど、正直、学生の頃に一度見てよくわからんなあという印象だったのが、今見てもやっぱりよくわからなかった。

まあ、話として、言いたいことはわかる。反物質至上主義、反資本主義というと大げさだが、ブランド品やら北欧家具やらあれこれモノを消費して優雅な暮らしってなんか虚しくないか、男なら自分の肉体ひとつでただ殴り合い、痛みを感じることで「生」を取り戻そうぜ、というのが前半部分で、主人公の「さえない僕」も、くそったれな日常はクソくらえで、殴り合い(というか、殴られること)の興奮と恍惚の中で、万事うまくいくはずだった。のだけど、後半部分で案の定、「さえない僕」の世の中への積年の恨みみたいなものが滲み出してきて、「かっこいい理想の僕」が暴走し始め、逆張りの世直しみたいなことをやりだすし、しまいには金融街を爆破してしまえ、ということになる。それに気づいた「さえない僕」はビビってそれを阻止しようとして、で、その後あれやこれやあって、最終的に「僕」は、「かっこよさ」と「さえなさ」の間で弁証法的に、劇的に、成長する。

というところまでは割とストレートな話なのだけど、どうも監督はもうひと捻り入れたいらしく、こうして「さえない僕」は「生」を取り戻すが、でも、もはや手遅れなのだ、というオチがつくことになる。でもまあ、ここは微妙なところで、見る人によっては「ファイトクラブ万歳! 世の中くそったれ!」で終わるだろうし、もうちょっと冷静な人は自己の弁証法を自分も期待することになるのだろうけど、でもそれすら茶化してしまうようなシニカルさがこの映画にはうっすらある。

実際、作中でも、映画館で上映映像の切り替えというクソったれな仕事をしているタイラーという人物が、ファミリー向け映画にポルノ映像をサブリミナルとして差し込み、家族のありきたりで平和なひと時に冷やかしを入れるという悪戯をやっているが、それと同じことをフィンチャーメタフィクション的にやっていて、例の弁証法的成長の感動的なシーンで、陰茎の写真が一瞬だけ差し込まれる。まあそれも素朴に見れば、「さえない僕」が「男」になったということかもしれないが、この映画のシリアスなメッセージを監督自身が茶化しているとも見えるわけで。

まあ、そういう悪戯をせずにはいられなかったのは、物質至上主義・資本主義への批判を、巨額の制作費を元に作られた映画ビジネスでやってのけるということがもう、フィンチャーにとっては馬鹿馬鹿しかったからだと思うし、窮屈な世間からの解放で「生」を取り戻すとか、最終的に俺たちは「男」になれるとかいうこと自体がナイーブなものなんだぜ、と。そういうわけで、エンドロールも結局は“where is my mind ?”ということなのだろうけど、それを言われたところで特段、おおっ、とか思わないわけで、まあ、なんだかなあ、というところ。