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『万引き家族』も見た

万引き家族

万引き家族

  • メディア: Prime Video
 

ひとつ前の記事で書いたように、家族をテーマに講義をすることになっており、準備のために『誰も知らない』を見たのだが、学生のレポートを読んでいると、何人かがこの『万引き家族』に言及していて、同じ是枝監督つながりだしな、ということで見た。

この映画に登場するのは、食いつなぐために万引きを繰り返す家族であり、しかもそれは、誰ひとり血縁関係にない疑似家族である。しかしそこには、何よりも心の絆みたいなものがある、ということで、この万引き一家は、そこいらの血のつながった家族よりもよっぽど、「本当の家族」らしい描き方をされている(他方、この映画に出てくる血のつながった家族といえば、育児放棄児童虐待を繰り返す家族、となる)。そんなわけで、ややもすると「家族というのは、血のつながりよりも、やっぱり心のつながりが大切だね」という感想でまとめられがちなのだが、まあ心のつながりと言っても、お互い生存のためにそういう「よき家族」のふりをしている、という描写もあって(それも完全に欺きあっているわけではなく、ホントと嘘が渾然一体となっている感じ)、そういうところが、家族の描き方に一層のリアリティを与えているのかもしれない。

で、この万引き一家も、『誰も知らない』の子供一家と同じく、やがて崩壊に至るのだが、家族外部からの「善良な介入」が家族を引き裂くという、『誰も知らない』では微妙なニュアンスでほのめかされていたテーマが、この『万引き家族』でははっきりと描かれることになる。たとえば、万引き一家の「父」と「息子」が、虐待家族から拾ってきた少女は、万引き一家の中ではじめて「娘」としての居場所を見いだすのだが、それが警察の「善意」によって再び、虐待家族の元へ差し戻されることになる。また、万引き一家の「母」に対する真面目で正義感の強い警察官の説法も、それがどこまでも「善良」なものであるがゆえに、見ている人にはまったく嘘くさいものとして映ることになる。この辺はかなりわかりやすく描かれていて、社会通念上の「ホント」を「嘘」として否定してみせることが、万引き一家の家族としての「本物らしさ」をより際立てる事になっている(まあ個人的には、『誰も知らない』の微妙な描き方の方が好みだが)。

ということで、なんか家族について考えるはずが、つい焦点がそれて、「本当らしさ・本物らしさ」がいかに付与されるかということについて考えてしまった。職業病ってやつかしらん。